秋田八丈とは
秋田八丈の歴史
秋田八丈は、江戸時代に生まれた、230年を超える歴史をもつ伝統工芸で、染色の特徴は、独自の技法で染色するハマナスの根皮を用いた鳶色(茶色)、カリヤスやレンゲツツジの若葉を用いた黄色や赤味の黄色、黒色の3色を基調とする、格子柄や縞柄の絹織物です。
江戸時代・秋田藩にて誕生
秋田の絹織物は、1784年(天明4)陸奥仙台藩の石川滝右衛門により伝えられたといわれています。秋田藩は1792年(寛政4)滝右衛門を物産方(特産物を扱う役所)として、養蚕・織物・漆などの物産振興を図りました。
さらに1814年(文化11)に上州桐生(現在の群馬県)から蓼沼甚平を招聘し、染色畝織・竜紋織・黄八丈織の染織業を起こし、さらに改良工夫がなされ秋田八丈が誕生しました。滝右衛門の伝えた技法に蓼沼のもたらした桐生の妙味を加え、金易右衛門、関喜内らの協力により、県内の海岸地帯に自生する『ハマナス』の根を染料として風雅な味わいのある鳶色をつくりだすことに成功しました。
そして秋田八丈、秋田絹の名声は大いに広まっていきました。
明治時代・最盛期の後衰退
明治時代を最盛期とし、明治27年頃には、秋田市内に27,8軒もの機業場があり、年間6万反もの織物が織られた時もありましたたが、日露戦争後の大不況により廃業する者が続出しました。
以後、社会の西欧化、近代化、二度の世界大戦という大きな時代の流れとともに衰退をたどり、大正時代には、妹尾謙治、佐藤房太郎、滑川五郎(滑川機業場・初代)と数えるのみとなり、昭和4年以降は滑川五郎のみになりました。
その後、昭和55年秋田八丈・秋田畝織は、秋田県無形文化財(保持者・滑川晨吉)に指定されたものの、平成15年11月に唯一操業していた滑川機業場(秋田市)が廃業し、一時生産が途絶えました。
奈良田登志子により復活
滑川機業場の廃業後、奈良田登志子により復活しました。経歴をご紹介します。
- 昭和25(1950年)年10月北秋田市(旧鷹巣町)生まれ
- 秋田県指定無形文化財(昭和55年)保持者の滑川晨吉のもと、昭和53年(1978年)より秋田の代表的絹織物「秋田八丈」の製造業務(滑川機業場)に従事し、技能の研鑽に努めました。
- 平成15年(2003年)滑川機業場が廃業したことで、滑川晨吉より機材一式を譲り受け、平成18年(2006年)北秋田市に「秋田八丈ことむ工房」を創設し、途絶えていた秋田八丈の技術を復活させました。2024年現在唯一の伝承者として秋田八丈の伝統技術を守りつつ現代に生きる染織り作りを実践しています。
- 令和5(2023年)年4月からは現在地(北秋田市)に工房を移したことをきっかけに、工房名を「秋田八丈はまなす工房」と改め、同年9月からは地域おこし協力隊として移住した藤原健太郎へ、後継者としての技能継承指導を行うとともに、工房見学や体験学習を行う準備を進め、秋田八丈の再興に努めています。
近年の実績
秋田八丈は、秋田県を代表する絹織物製品として全国的に高い評価を得ています。
- 平成22年(2010年)6月開催「第59回全国植樹祭」に行幸された天皇皇后両陛下(現上皇両陛下)の記念写真アルバムの表装用生地として採用
- 平成24年(2012年)には「第23回全国緑の愛護の集い(6月)」、「第15回全国農業担い手サミットin秋田(11月)」に行幸された皇太子殿下(現天皇陛下)の記念写真アルバムの表装用生地として採用
- 平成22年(2010年)「秋田県特産品開発コンクール・民芸部門(秋田県主催)」にて優秀賞受賞
- 平成29年(2017年)2月~ 北秋田市ふるさと納税の返礼品として採用
- 令和5年(2023年)いしかわ百万石文化祭2023 着物コンテストにて審査員特別賞を受賞
秋田県工芸家協会(会長・鎌田俊弘)会員として、県内外の展覧会・イベント等に意欲的に参加し、他の工芸分野の啓発・普及活動にも尽力している。